コラム

2014.01.30

第7回 縄文時代・・・三内丸山遺跡を訪ねて

JPN株式会社 日沖清弘

昨年11月16日から2泊3日で友人と秋田、青森方面を旅行した。秋田新幹線から五能線を利用して弘前を回り、帰りは新青森から東北新幹線で東京に戻った。新幹線の御蔭で秋田、青森を十分、時間をとって楽しむことができた。特に五能線は地元の方々によるおもてなしがとても良く、他の旅行では味わえない楽しさがあった。

ちょうどこの時期は観光シーズンが終わり、観光客が少なかったことも幸いしたようだ。東京圏の人にはお奨めのコースである。

この旅行の最終日は青函トンネルの竜飛海底トンネル駅を予定していたが駅員に尋ねると北海道新幹線の工事で閉鎖しているとのこと、当日は雨模様だったこともあって近くの観光コースを青森駅前の観光案内所で紹介いただき、縄文時代の三内丸山遺跡を見学することにした。バスで約20分の道のりであった。

この遺跡については新聞などで、6本の太い柱が発見され、それが何の目的であったか、出雲大社で発見された6本の太い柱の神殿と関係があるものかと、いろいろ論じられていたので関心があった。この遺跡は江戸時代から知られていたのであるが近年になって学術的に貴重な遺跡が発見され保存されることとなったものである。

遺跡の記念館:縄文自由館は立派な建物で発掘された多くの遺品が展示されていた。広い遺跡をボランティアの方が一緒に歩いて懇切丁寧に約1時間ガイドしてくれた。

ふと55年前の小学、中学生の頃、鉱石や化石を収集するのが趣味であったことを思い出した。三重県北部の鈴鹿山脈の麓に父の実家があったが、近所の茶畑に行くと縄目模様をした縄文土器の破片を沢山拾った。実家に行く楽しみの一つでもあった。中学を卒業する頃には、この趣味は無くなっていたが、今ここに縄文時代の遺跡に触れて古代への興味が沸き上がった。私の縄文時代に対する認識は石器時代の延長で、竪穴式住居に住み、着ているものは毛皮で狩猟生活をしている、言わば小、中学生時代にテレビを見てアフリカの土人と呼ばれていた人々と同じような生活をしていたのだろうという認識であった。集落や農業文化と呼ばれるものは弥生時代に入ってからのものであろうと思っていた。

しかし展示されていた土偶を見ると衣服を着ており、しかも模様があるではないか、衣服があるということは編むという技術があり、模様があるということは針で縫うという技術があり、実際に鹿の角、動物や魚の骨を利用した針が展示されていた。糸を通す穴の空いた針はすごい発明ではないか、どの様な発想でこの様な針を考えついたのか、さらにヒスイの飾り物があった。ヒスイはこの地で取れなく、遠く糸魚川辺りから持ち込まれたものだという、では当時、そのような遠方との交流はどのようにしていたのか、交流するには文字が無い時代、どのような言葉でやりとりをしていたのだろう。

この三内丸山遺跡は4000~6000 年前の縄文時代のもので、現在の西暦2014 年と比較しても、あまりにもかけ離れており想像することはロマンの世界だ。

ガイドさんの話によると平均寿命は33 歳程度だったそうだ。長寿社会の今日、寿命は80歳を超えるのは普通だ。幼かった頃にはテレビ、冷蔵庫、洗濯機などは一般の家庭には無かった。自動車も田舎では数台しかなかった。それから60 年、パソコン、携帯電話など想像もしなかったものが生活に入り込み、田舎に帰ると遊んだ裏山が無くなって新興住宅になっている。これが縄文時代だったら、生まれた時と同じ風景の中で一生を終える。時の流れは実にゆったり、ゆっくりと過ぎていく、昨日と同じ今日があり、明日がある。

この地を訪れ、この時代に興味を引かれ記念館で一冊の本を買った。

“縄文 謎の扉を開く・・・発行:冨山房インターナショナル”

考古学、史学、文学、宗教学、医学、建築学、農学の学者が各々の専門的立場で縄文時代の生活を述べている。文字のない時代、記録されたものはなく出土された遺跡のみで、言わば推論に近い形で当時を論じていておもしろい。

未来を想像するだけでなく、5000 年も昔の時代をアレコレ想像するのもまた楽しい。

古代縄文遺跡をぜひ訪ねては!

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